勝っても負けても 41歳からの哲学

勝っても負けても 41歳からの哲学

勝っても負けても 41歳からの哲学

今は割と落ち着いたのかもしれませんが、ビジネス街の書店の入り口近くの平積みには、「勝ち組」「負け組」という言葉があふれております。まるでそんな本を皮肉るかのように、この新刊が登場しておりました。今日が発売日ですよ。
14歳の次は41歳か、と思えば、この本は41歳シリーズの続編なんですね。前作は未読。書き下ろしではなく、『週刊新潮』の連載をまとめたものらしい。冒頭に前作を宣伝する文章があって、一瞬ハテナ?と混乱する。
購入するときレジでふと思ったのですが、価格は意外と安いですね。普段あまり本の値段は気にしないのですが。
池田晶子が哲学者である、という認識は薄いのですが、自分のアタマでものを考えるという必要性を思い出させてくれる存在ではあります。勝っても負けても、生きていれば、いつかは死ぬんですよ、と。

どうやら週刊新潮の連載は続いていて、最近ではその掲載内容はなにかと物議をかもしたりしているようですが、(若者が自分の闘病をインターネット上で公開し、そのドキュメンタリーがテレビで放映されて、それを見た池田晶子は「気持ち悪い」と発言したらしい)パソコン持たない、インターネット見ないという著者にしてみれば、どうやらこの世界、このはてなダイアリーがあるインターネットという世界というのは気持ち悪いものらしい。※話題になっている文章は、この本の中には掲載されていない。時期的にそれ以前のものである。※

わたしはパソコンもない、インターネットも見られないという生活は考えられないし、もしこれから自分が死に直面するとすれば喜んでそれをネタに公開するようなことをするとだろう。たとえそれが気持ち悪いものであっても、それでも池田晶子のいう主張のほうに自分は納得するのだ。そうなんです、そんなこと、おそらく、とっても気持ち悪いことなんですよ。でもそれが快感だからやるんです。おそらく、池田晶子が理解していないことは、闘病する若者が生きようとする感動ではなく、それを公開するという快感なのですよ。
そんなこと知らなくていいですよ。でもそれと考えるという根本的なことは、別のものだ。「わたしの書くことはわかるひとにはわかるんだ」という首尾一貫した著者の主張を読むと、どちらかというと、自分はわかる側の方に立っているのだなあと親近感を感じるのです。少なくとも、今までさんざん恥ずかしいことを日記に書いて公開してきた自分でさえ、それが気持ち悪いものであることは理解できる。